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赤い爪 

「もう、手、痛くないのか?」
アイザックに尋ねられて、冷水の中で小さな手を動かしていた氷河は、あ、と呟いた。
「そういえば」
先に弟子となっていたアイザックと違い、氷河は随分長いことあかぎれを作っていたが、いつの頃からか、あのひどい痒みを覚えることもなくなっていた。
「小宇宙が目覚めてきたんだな。前ほど寒くないだろう」
と、まるで俺のおかげ、と言わぬばかりに、兄弟子が鼻をうごめかした。
「寒いってことさえ忘れてた」
隣で、アイザックが皿を洗っている。二人ともに足元に台を置き、その上に立っていた。まだ背が低いので、台がなければ背が届かなかった。
「これで俺も一安心だ。凍傷にかかったりしないだろうし、逃げる途中で氷漬けになってるのをカミュが見つけることもないだろうから」
「アイザック、俺は逃げたりしない」
お前は弱虫なんだと言われたような気がして、少しむっとして氷河は青い瞳に力を込めた。氷河には目的がある。それを果たすまでは逃げることはしない。
剣幕に驚いたようで、兄弟子は一瞬、言葉に詰まった。ごめん、と口を尖らせて、
「むきになるなよ。俺が、安心したというだけだ」
その返事に満足して、氷河はまた皿に向かい合う。真剣なまなざしで、油ぎった皿を見ていた。
氷河の母の手料理もそうだったが、ロシアの料理は油気が強い。石鹸をつけて洗っても、石鹸の質自体が悪いからか、なかなか皿から落ちきらない。
それを、藁を束ねて作ったブラシで、触れた指がきゅきゅと鳴るようになるまで洗うのは、弟子の仕事だ。
子供であるアイザックと氷河には、いささか辛い仕事だったが、氷上での鍛錬に較べればものの数でもなかった。タイル張りの洗い場に、命の危険はないのだ。
「ところで、今日の飯、まずかったよな」
アイザックがぽつりと言った。同意見だったが、その方がよほど命に関わることのような気が、氷河にはする。

「カミュ、皿洗いが終わりました」
夕食の後、9時頃自然に眠くなるまでの短い時間がアイザックと氷河の自由時間であって、その間も二人は師の傍らにいたがった。
穏やかで理知的な、厳しいが故なき暴力など一度として振わない師は、父とも兄とも言える存在だった。学業を教えるのも師だった。
食卓であったテーブルを片付け、安っぽいギンガムチェックのテーブルクロスにノートを広げ、ロシア語やギリシャ語の読み書きを教わる。眠くなったら自分でベッドに行く。朝、カミュは二人を起こしに来る。またこの食卓で粗末な朝食を取る。
家庭や身寄りを失った二人の子供にとって、三人で囲むテーブルは、世界の全てに等しい。
が、二人は居間に戻りかけ、部屋の入り口で立ち竦んだ。
部屋が臭い。
ペンキのようなつんとする臭いで、部屋が充満している。
その中で、師は、目を伏せて、己の指先を見つめていた。食卓になっていたテーブルの上には、赤い小瓶が置かれている。それは、ビニール張りでてらてら艶を放つ薄青いチェックの上に、やけに毒々しく映えた。
微かに、本当に微かにだが、師の唇が綻びるのが見えた。纏った空気が金色に輝いているのは、氷河の目の錯覚か。見間違いでなければ、師は、誰かと話し合っている。ここにいない誰かの声に、見えない声で笑っている。
話し相手は、いるとするなら、テーブルの向かいの席にいるように見えた。
まるで、自分たちの居場所がここではないように、氷河は感じた。

「カミュ、何をしているのですか」
意を決して氷河が問いかけると、カミュが顔を上げた。背を覆う見事な赤毛が、暖炉の光を受けて燃え上がっている。(母が、自分の髪が金髪なのを喜んでいたことを、ちらと氷河は思い出す。お父様と同じ黒でもよかったけど、赤毛でなくてよかった、と言っていた。その色をこんなに誇らしげにしている人を、氷河は知らない)
「ああ、アイザック、氷河。皿洗いは終わったのか」
表情は元に戻っていたし、黄金色の空気は姿を消し、向かい合わせの椅子に気配も感じなくなっていたが、その声は、鍛錬の時と違い、やさしい。
「部屋が臭いです。ペンキ塗りですか」
ペンキ塗りなら今しなくても、俺たちが明日します、とアイザックが言った。
「確かにペンキの一種ではあるな」
カミュが微笑しながら、手にしていた小さな筆のようなものを、赤い小瓶に突き立てた。
そして、左手を宙にかざし、眉を寄せた。満足げな顔はやけに若く見えた。
「ふむ、思っていたより簡単だな」
「! カミュ、爪が赤い」
アイザックがカミュの背に取り付いた。氷河は、少し躊躇い、座ったカミュの足元にぺたんと座り、その手元を見上げた。
師の手は細く長い指を備えていた。子供らにとっては、不思議な氷の技を見せる、魔術師、いや神にも等しい手だ。何もかもを失った孤児の運命に、この美しい手は力という名の灯火と団欒を示してくれた。作る料理が時々まずくても信頼は損なわれなかった。
その、形よく整った楕円形の爪、左手の五本全てが、夕日に近いほどのまばゆい赤色に染まっていた。髪と同じ色だと氷河は気づいた。その赤さのせいで、指の白さが映える。
「どうしてこんなことを?」
尋ねるのはアイザックに任せ、氷河は、その手の指に母親の姿を思い出しかけたが、違う、と思った。
マーマはこんな指をしていただろうか。どうだっただろう?
「友人が送ってきたのだ。何日か前に荷物が届いただろう。あの中に入っていた。一体何を考えているのだろう」
確かその中に、自分たちの服も入っていて、その時は不思議にすら思わなかったがサイズもぴったりだった。あの荷物の中に、これもあったのか。
「綺麗な色ですね」
「西側の商品は、何であれ質がいい。お前たちの服も。それに引き換え、この国はもう駄目だ」
外聞の悪い台詞をこともなげに言って、爪先をふっと吹く。有機溶剤の臭いが濃く舞い降りてきて、氷河は気分が悪くなった。カミュが、静かに氷河の顔を覗き込んだ。
「ああ、氷河、空気が悪いのを忘れていた。窓を開けてきなさい」
「寒くなるけどいいですか。あたたかさが勿体無いです」
「締め切っていると、お前たちの体に悪いからな。開けたままで構わない」
氷河は数歩でたどり着いてしまう窓辺に立ち、軋む窓をがたがたと何度か動かして、細く隙間を開けた。
凍てつく空気が雪とともに入り込み、冷たさで部屋の中をかき回したが、その清浄さに彼はやっと息をつけた。もう体は寒さを感じない。
「カミュの友達ってどんな人ですか」
窓をそのままに歩み寄って、氷河は尋ねた。今度は、膝にしがみついてみた。鍛え上げられしっかりとした筋肉を、氷河は腕に感じた。カミュは何も言わないで、氷河の重さを受け止めた。
「とても強い男だ。お前たちもいつか会う機会がある筈だ」
「強いって、カミュよりですか?」
「氷河、カミュより強い奴がいる訳ないだろう」
アイザックがたしなめたが、一瞬、彼らの師は考え込む顔になる。爪と向き合う無駄な真剣さなのかも知れなかったが。
「……なかなか難しいな」
カミュは背中にアイザックを、膝に氷河をしがみつかせたまま、右手に取り掛かっていた。赤いペンキに彩られた指が、不器用そうに黒い蓋を握る。赤い液体が、右手の爪の上に塗り広げられていく。一心不乱に爪先を見つめる顔は、ロシアや日本や、いろいろな場所で見たどの大人より若く不安定だ。大人は、こんなことに真剣になったりはしないものだ。
そうかこの人は本当はまだ子供なのだ。何故か師の顔を見るのが怖くなり、震える筆先が、少しむらを残すのだけを目で追った。
「私は彼と戦いたくはない。彼も黄金の一人であるからには、向かい合えば無事では済むまい」
「先生、先生の友達と先生が戦ったら、どちらが勝ちますか」
その刹那、ぐり、と左手が小さくぶれた。


「ずれてしまった」
カミュが右手の爪を揃えるような不思議な握り方をしながら、少し不満げに言った。
赤褐色の瞳を嵌め込んだ切れ長の目が、僅かにとがめる様に細められた。
「お前たちがおかしなことを言うから、はみだしてしまっただろう」
カミュが、指を使わず手のひらで包み込むようにして、瓶の蓋を閉じた。新しい臭いは師の手からだけ漏れてくる。テーブルの縁に揃えられたそれを、アイザックと氷河は、見て笑った。
「左手は綺麗なのに、右手ががたがた!」
右手の爪の上で、赤い色は美しい形の爪から、肌の上にまで大きく乗り出し、指で触ってしまったのか指紋がくっきりと痕跡を残していた。一本どころか、全部だ。師は案外不器用なのかも知れない。
けれど、子供たちが出した小さな手の上の爪より、それはずっと美しい。欠けてもおらず、隙間に土が入っていることもない。一度として誰かを殴ったことなどないような指だった。自分たちの、僅かな期間でぼろぼろになり、石鹸と冷水で荒れた手とは全く違うもののようだ。
「カミュの手は綺麗だ」
氷河は言った。いずれ自分もこんな手になるのだろうか? 氷の技を覚え、聖衣を手に入れ、触れることもなく相手を倒すのだろうか? そのとき、俺は誰を倒すのだろうか?
「でも右手はぐちゃぐちゃだ」
アイザックが笑いながらまた言ったので、氷河はそんなことをすぐに忘れてしまう。それより、師の右手が気になって仕方ない。これじゃ塗らないほうがましだ、と氷河は言った。
「何を言う、お前たちもやってみればいい。利き手に塗るのは難しいものだ」
と、カミュは穏やかに笑った。俺は塗らなくていいけど、そうだ俺がカミュの右手をなおしてあげます、とアイザックが小瓶を手に取り、氷河が俺も塗りたい、とそれを奪いにかかった。

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