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聖人 

「やあみんな、おめでとう!」


ハスガードはどこに行っても子供に囲まれる。黄金の聖衣に身を固めても、今のように粗末な毛織物の平服でも変わりない。
あの巨躯、繋がった深い眉の下に光る温厚な牛に似た瞳、地から響くような豪放な笑い声がそうさせるのか。あるいは、弟子を3人も抱えている経験がなせる技なのか。
子供たちが寄せる信頼は、聖域近郊の人々が抱く、黄金の闘士に対する崇敬以上のものがあった。
歩いていれば、砂の中を引き摺った磁石が砂鉄を集めるように、目を輝かせた子供たちがついてくる。
「ハスガードさま、おめでとう!」
ついてくる子供の中に新しい顔を認めると、ハスガードの目はさらに綻み、金牛宮を預かる世界最強の闘士にはとても見えなくなる。そしてそうなると、黄金の総大将といえども一介のおまけに過ぎない。
「ねえ、バシリスさまの日は過ぎちゃったよ? 遅いよ! 来ないかと思った」
新年の一番最初の日を、この地では古い聖人の名に基づきそう呼んだ。他の土地であれば、サンタクロースが最も近い存在かも知れない。
病弱で細身、知性的であったというその聖人と、ハスガードに似通った部分は全くないのが、傍らで自らもパンを配るシジフォスにはおかしかった。
「すまんすまん、あちこちを回っていたら遅くなってしまったのだ。それでもバシリス様はお前達をお忘れではないよ」
大きな袋の中に、手袋をしたような大きな手を入れて、小さなパンを取り出した。
「はい、おめでとう。バシリス様からのおみやげだ」
子供が手に取ると、決して小さなパンではないのだ。対比というものは、ものの縮尺をも変えてしまう。
大きな掌で頭を撫でられ、子供の顔はどれも笑みに輝く。貧しい服を着ていても、教会の説法がわからなくても、聖人は彼らの澄んだ目の前に現れるのだ。十字もさげない姿で。

「凄い人気だな、ハスガード」
道端に店を広げた食堂で、塩焼きのサバをパンに挟みながら、シジフォスは目の前の巨体をからかった。
「なに、パンの力だろう」
既に膝の上には、貧しげな身なりの子供が座っている。丸太のような腕にも背中にも、小山登りでもするかのように沢山の子供が挑んでいた。
そして同胞の方はといえば、子供らにキスをせがまれて返してやったり、腕一本の力で子供を何人もぶら下げてやるのに忙しい。シジフォスも、膝の上に子供を抱えてはいた。
「俺ではそうはならないよ。パン、作ろうか」
とても手が離せない状況の同胞の皿を、シジフォスは手元に引き寄せた。
「ああ、頼む。レモンをたっぷり絞ってくれ。オリーブオイルもな」
パンにたまねぎの薄切りとトマトを挟み、レモンとオリーブオイルをたっぷり垂らした。料理とも言えない料理だが、新鮮な魚に恵まれた土地ならば、下手に手を掛けるより美味いものが食える。
この体で一つでは足りないだろう。そう考え、シジフォスはもう一つパンと魚を注文した。
オリーブオイルは上等で青いりんごの香りがし、店の心遣いの味がした。
「それにしても、不思議なものだな」
時々頭をよぎる疑問を、シジフォスはつい口にした。
無論、何がとは言わなかった。この地の敬虔な人々の心象を損ねる必要はない。
「我々が聖人の役でパンを配って回るとはな」
「言われてみれば、呼び名は同じだが妙におかしいな」
そう言うと、二人はふっと肩の力の抜けた笑いを漏らした。この時期、聖域中で見られる笑いだ。
「我らこぞって女神の教えを破っているような気がしてならんよ」
この土地の人々が信じる宗教と、この地を回る男達が帰依する宗教は、その成り立ちそのものが全く違う。それでも土地の人々は、人を守ることに命を捧げる男達を歓迎した。
「シジフォス、お前も新年が近付けば心が浮き立つだろう」
ハスガードが二つ目のパンにかぶりつく。その一口で半分がたが消える、気持ちいいほどの食べっぷりだ。
シジフォスはハンカチで手の油を払いながら、どこかに視線を投げ、微笑んだ。
「確かに、6日にはケーキを切りたくてうずうずする」
子供の頃からの風習は恐ろしいものだ。新年は、聖人からのプレゼントを貰う日、6日の主顕現祭にはクリスマスから飾っておいたケーキを切って食べた。シジフォスほどの男でさえ、この時期になると心が浮き立つ。
昔のことを思い出すと、遠い団欒が蘇る。それは決してシジフォスにとって不快ではなかった。
「そういう気持ちを分け与えるのは、悪いことではない。なあ坊主お前もそう思うだろう」
ハスガードが、口の周りをオイルでべたべたにしたまま、膝の上の子供の頬にキスをした。やだ、と笑いながら、子供は服の肩口で頬を拭った。
「子供の笑顔が見られるから、それでいいのだ。俺達が何であっても、どう呼ばれても」
「そしてこの笑顔が一年守れれば、な」

人々が彼らと彼らの神を呼ぶ名は何でもよいのだ。それを生ける聖人達は知っている。
力を持たぬ人々を慈愛の眼差しで見ている者がいるのなら、人々を守る尊い意思が彼らの上にあるのなら。
その名代である限り、彼らはなんと呼ばれようとも戦うことができるのだ。

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