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休暇・3 

 帰郷

 法王庁の宮殿と大聖堂の並ぶ広場から、大通りに入ってゆく。
 この辺りには、都一の大図書館のみならず、大貴族の邸宅や各国の大使館などが居を構えており、石畳の道を行く人々の美服も、従者を連れたゆったりとしたその足取りも、教圏最大の都市にふさわしい華麗さと鷹揚さを示している。
 少し大通りを離れると、今度は回廊のある区画に入った。道を行く人々の顔付きも、肌の色も、扱う言葉さえ変わってきた。大商人達が店を構える一帯である。
 道幅は幾らか狭くなり、頭上を埋める建て増しと、支える柱によって、雨が降る日にも濡れずに商売をすることができるのだ。
 両替商、宝石商、高価な生地や陶器を商う貿易商などが軒を連ねている。セルピコはそれらをちらりちらりと眺めて歩いた。
 この一等地に並ぶ店の多くにはヴァンディミオンの資本が投下されており、ヴァンディミオンの持つ店舗も含まれている。屋敷で働く平民の若者達は、いつか己の手腕を見出され、店の管理を任されることを夢見ている。
 それすら飛び越えて貴族の称号を得た己を省みる。それは栄達と言えるのか。己を閉じ込める牢獄に入っただけではなかったか。
 さらに、道を聖都の辺縁へ辿ってゆく。行き着く先には、施療院がある。
 だが、彼は足を止め、暫し考え込んだ後、行く先を変えた。

 その界隈には、地面に落ちた野菜の屑や肉屋の血が腐って放つ、いささか饐えた臭いが漂っている。しかし、そこに住んでいるうちは、鼻が慣れてしまって、なにも感じないものだ。
 腐臭の中を、貧しい子供達がぶかぶかの靴で走り回る。時々屈んでは、切り落とされた葉を拾っていた。その中の一人が、あの、と呟きながら、握った硬貨を差し出そうとする。
「金もねえのに手を出すんじゃねえよ! あっち行きやがれこの糞餓鬼!」
 血まみれの皮エプロンの腹を突き出して、男が胴間声を上げた。
「お金なら持ってるよ……」
 垢じみた手が引っ込められた。幼い顔の中で、怯えた瞳が涙を溜めていた。
「どいたどいた、てめえなんぞに売らねえでも、買い手は他にいるんだぜ?」
 子供はじっと悔しげに彼を見上げていた。どうせ盗んだ金だろう。肉屋は勝手にそう決め付けた。
「けっ、近頃はろくな客がいやしねえ……」
 蠅と子供をナタで追い払ってから、ぶつぶつと肉屋は不平を垂れる。この世の全てに、神に向かって。景気は悪く、財布の紐は固い。近隣には神に見棄てられた貧民窟があり、そこの人間は女は娼婦、男は盗人になる。
彼は曲がりかけた腰を伸ばそうとした。そして呆気に取られた。
 人混みの上に、帽子の羽がふわりふわりと浮いている。やがて姿が見え始めた。細身の体を包む地味ながら仕立てのよい衣服を着た男が、勝手に道を開ける貧しい人々の間を歩んでくるのだ。
 どこの若君が迷い込んだのだろう。少し、この辺りに金を落としていってくれるといいんだが……。店の中の肉を丸ごと買い上げるような幸せは待ってないものだろうか。水に漬けて嵩を増した肉も、酷い匂いを放ち、そろそろ限界なのだっだ。
 若者が肉屋の前に足を止めた。運が巡ってきたと、男は疑うこともなく、思った。
「お元気だったんですね」
 その顔に、若者は声を掛ける。肉屋はきょとんとして、若者の顔を穴の開くほど見詰めた。
「ぼくですよ。覚えていらっしゃいませんか」
 若者の白い顔や高価な装身具をためつすがめつ眺め、肉屋の親父は眉を顰め、頬のたるみを震わせている。
 どこかで、この顔に見覚えはあった。特に、唇が微笑んでいても何ら表情を映さない切れ長の瞼に。しかし、何も思い出せないのだ。
「若様のような知り合いは持った覚えがないんですがね」
 不興を買うかも知れない。しかし、正直に言った方がいいと判断し、初老に差し掛かった店主は卑屈な口調で言った。すると、貴族の若者は細い指で、通りの果てを示した。
「あっちの路地の裏に、潰れかけた家があったでしょう?」
 小路はくねくねと折れ曲がりながらさらに細くなり、さらに貧民の住む界隈に繋がっている。
「へっ、ご存じないかも知れませんが、あの辺は潰れかけばかりでさ。家でさえ真っ直ぐに立っちゃいねえ」
「何年か前まで、母一人子一人の親子が住んでた筈ですけど」
「あの辺は売女と私生児ども多いですからねえ……いや、待てよ」
 数年前。こんな顔をした子供が、確かにいた。この辺で野菜屑を漁ったり、荷運びで小銭を稼いだりしていた。名前は……蛇みたいな顔に似つかわしい、そう……
「そうだセルピコだ! あんたの名前はセルピコだろ!」
 若者の帽子の下の顔が穏やかな微笑みに彩られた。
「覚えててくれましたか! 本当に嬉しいな」
 胸に迫るものが、歳を経た男の中にあった。店先を飛び出して、血に汚れた皮エプロンのまま、若者の体をがっしりと抱き締めた。
「本当に立派になったなあ、おい! 大身のお屋敷に勤めたって聞いたけど、あんたはこの辺一の出世頭だよ!」
 その刹那、彼の顔に痛苦と皮肉がよぎるのを、肉屋は見ていない。
「おい、みんな、セルピコが帰ってきたぞ! 帰ってきたんだ! ここの裏路地に住んでたのさ! おっかさんと二人で、なあ」
 富めるものは富み、貧しいものは貧しいまま死んでゆく。それがこの世の摂理だった。しかし、この若者はその中から抜け出したのだ。この細い体で。
 貧困に暮らす人々の賞賛と羨望を向けられて、セルピコは微かな苦笑めいたものを顔に浮かべた。
「いつも買いに来てくれたなあ」
「おじさんに育てて貰ったも同然ですからね。叱られもした」
 ばしばしと体を叩かれながら、真顔で、セルピコは言う。
「そのナタでよく追っかけられたものです。『この薄汚え泥棒、寄るんじゃねえ』」
 ナタを振り上げる真似をしながら、彼は口真似をした。人々はそっくりだと笑ったが、肉屋はそこまで下品な男ではないと自分で思っていたから、認めはしなかった。
「おっと、俺ぁそんなこと言ったっけか? 真っ当に買え、ぐらいは言ったかも知れねえけどよ」
 彼の頭をよぎるのは、美しく正しい記憶ばかりだ。貧民窟の子供達は、容易く盗みに手を染め、そのまま真っ当に生きることをやめてしまう。彼は善導しているつもりなのだ。
少なくとも、この品のよい若者に惨いことを言った覚えはない。あの頃は汚い子供でも、今は立身を遂げた若者だ。何にも動じない気味の悪さは、人とは違う気品の先触れであったのだ。
 そんな相手に、失礼を働く訳がない。記憶は、現在の自分を基準に都合よく書き換えられるものだ。
 セルピコは、無論そのような心の働きを承知していた。この服のせいだ。この美しい衣装が、彼の人格を見誤らせる。彼は何一つ変わっていないのだ。ぼくはこの市場で、様々なことを覚えた。愛想の売り方。まだ食べられるものの見分け方。男でもいざとなれば売れるものがあるということ。そうなる前に、少し重そうな財布を掏り取ること。
 暗い記憶が次々に意識の表層に浮かんでは消える。それを彼は、柔らかで飄然とした顔の皮一枚の下に押し隠した。
「今日はちゃんと買いに来たんです。母が、ここのソーセージを食べたがっていたもので」
 冗談めかして言いながら、彼は売り物にじっと視線を向けている。
「病人の食べるものですから、沢山はいりませんよ。お幾ら?」
 懐に手を入れながら、彼は尋ねた。店の親父は、セルピコの見積もりより幾許か高い値を言った。
「おまけしておくから、また顔を見せてくれよ」
 紙の袋におまけのソーセージを手繰り込むその手つきを見て、
「これでとんとんかな……」
 と、若者は嬉しげに言った。
「ん、どうしたい」
「昔はよく、肉の重さを誤魔化されたもんだなあ、って思いましてね。今ので元が取れましたね」
 微笑みながら言うと、肉屋は居心地悪そうに視線を逸らした。

 絹に包んだ腕に鼻を近付け、くん、と嗅いだ。鼻が曲がる臭気が、体にこびり付いている気がしてならない。水仙や薔薇の薫香に慣れた身には、それが耐え難いものに思われた。
鼻だけは貴族になり切っているらしい。皮肉な話だった。それ以外のことは全て、今も覚えているのに。
ふと、背後に人の気配を感じた。振り返ってみる。
 小さな足音が、道端に停めた荷車の陰にぴたりと止まる。
「こっちにおいで」
 若者は立ち止まると手招きをした。垢じみたなりをした子供が、じっと彼を見詰めていた。
「怖いことはないですよ。さ」
 腰を屈め辛抱強く手招きをする。ぼろぼろの、爪先が大きく口を開けている靴が、一歩前に出ようとして、止まった。
 無言でソーセージの紙包みを差し出す若者の細めた目の奥には、過去を懐かしむような光があった。
 子供は、人に馴れない獣のような眼差しで彼を見上げる。既にその瞳の中に、他の感情は失せつつあるようだった。こうして、人は磨り減って行くのだ。
「おなかが空いているんでしょう。わかりますよ。これをあげよう」
 子供は歩み寄ってくる。しかし、彼の言葉を信じてはいないのだ。噛み縛った歯の間から、何か声が聞える。それが感謝なのか、疑問なのか、彼にもわからない。
「……」
 差し出した紙袋を、子供はひったくった。そして頭を下げることもせずに、人ごみと芥と悪臭の中に走り去っていく。
「誰かに取られる前に、早く帰るんですよ」
 若者は寂しげに呟いた。昔の己を見送る眼差しとともに。

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